教育論

id:oteh 「そもそも公教育は個性を育てるためにあるわけではないのです」って答えたらどうなるんだろう。
はてなブックマーク - それを個性とはよばない - 北烏山だより

これは意外と的を射てると思った。

教育現場では個性を育てること自体は目的ではなく、「異なる価値観を認め合うという社会の価値観を教育する」というより大きな目標のための一例なわけだ。より現実的に言えば「異なる価値観をむやみに否定しない」となる。「認める」ってコストがかかるからね。

点数化されたテストでは、点数を与えないことは「その解答を積極的には認めない」と「その解答を積極的に否定する」という2つの意味が付きまとう。点数が与えられなかった解答は、採点者にとって理解できる要素がない解答だったのか、それとも明確に否定すべき解答だったのかは区別できない。なぜ0点と採点したのか、「良解答例と異なるから」では説明になってないわけだ。

論理性が比較的厳密な算数や数学ではこの手の曖昧さは少ないだろうと思う。教師側が理解できない解答の場合、内容を確認される文化はあった。生徒側だって、採点に納得できない場合は教師に確認できた。国語じゃ、やった覚えがない。いや、本当は一度だけ試したことがあるけど、「点数欲しさにわけわかんないことを言ってる」と触れ回られた嫌な思い出がある。わけわかんないこと言ってもいーじゃねーか、だってわかんねーんだもの。高校一年の春に現代文で偏差値11を取ったのも、今となっては良い思い出です。ひっくり返すと偏差値89か!東大なんて目じゃないおwwwwww

そんなこんなで、国語教育にはとんと縁を感じられなかった俺の話でした。自分語り乙。

とまぁこう考えると、

この作品は、当然、こう読めなくてはいけない、ということは、
たとえ本文にハッキリ書いていなくても、厳然としてある、とわたしは思っている。
それを個性とはよばない - 北烏山だより

元記事の「こう読まなくてはいけない」は間違い。誤答と判定するには「そう読むのは妥当ではない」という説明が必要になるってことだ。説明して納得して頂けたら、誤答も個性だから尊重しろなんて意見は自然消滅する。逆に、「そう読めなくはない」という結論になれば誤答として扱うのは不適切で、100%ではなくても、一定の評価をしなければならない。

その余地を消したら、そりゃ学問とは呼べないよね。