僕と国語

小学校時代

文章を読むのは嫌いじゃなく、退屈な授業中に教科書を読み進めるのが好きだった。お陰で退屈な授業が余計に退屈になった。
漢字を書くのが苦手で、テストは常に90点だった。

中学校時代

相変わらず退屈な授業が続いたような気がする。どれ位退屈だったかって、全く記憶にない位に。あと、「『○○○○○○とした』の○○を埋めよ。」的な「お前覚えてねーとわかんねーだろ」って問題が増えてうんざりした。
テストは60点に下がった。

高校時代

現代文で偏差値11の上*1、答案の答えを確認しにいったら「点数欲しさに文句を付けにきた」と触れ回られ、読書感想文を提出しなかった見返りに殴られた。他の記憶は全くない。病気かってくらい、覚えてない。
古文を読み進めるのは好きだったけど、基本は睡眠時間。眠くない時間帯に予め読み進め、参考書の該当ページを開いた状態で机に突っ伏し、これで教師からの質問には素早く答えてた。「ありをりはべりいまそかり」しか聞かれなかったからね。
テストは30点に下がったけど、センター試験はほぼ満点だった。

つまり

こんだけ退屈で不安定なものをして「教育」とかのたまうのって、教育されてる方からすれば迷惑でしかないんだよね。と、俺の記憶が主張していますよ。

さて、私たちが、百人一首を諳んじ、徒然草の馬鹿馬鹿しさを笑い、曽根崎心中のような色恋に密かに憧れ、李白の詩に頭を痛め、英字コラムに翻弄されつつ環境問題に今度は心を痛め、『こころ』の「僕は馬鹿だ」という先生の言葉を赤ペンでぐりぐりと塗りつぶしていた、絵に描いたような思春期のあの時間。他の学校の人が何を学んでいたのか、私には知る由もない。
http://d.hatena.ne.jp/elastica/20081112/1226505243

そういえば英語も、文章を読むのが好きだったなぁ。テストは常に25点だったけどww

僕らに足りないのは時間でも物量でも勉強でもなく、徒然草の馬鹿馬鹿しさを笑い合える環境じゃないかなと思いますよ。大事なのは文法でも単語でもなく、文章を読む価値でしょう。古文を読めば、今まで知らなかったことがわかるようになる。英語を話せれば、今まで話せなかった人と話すことができる。そこんところの「でっかい価値観」をうやむやにしたまま「基礎が大事」なんて薄い言葉で小さい価値観を叩き込む、そりゃ上手くいかんでしょうね。

こんな質で週8コマに増やされたとしたら、そりゃ退屈で退屈で退屈で退屈で退屈で退屈だろうなぁ。

ブクマコメに。

http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/katzchang/20081118/p1

id:letterdust
退屈の二分法以外の言葉への感想がほとんどないのが気になった。

確かに、読み返すと愚痴愚痴した内容だよなぁ。退屈の二分法って表現は面白いと思った。

id:elastica
教育一般話はしてない。ある集団の平均を押し上げるための方法論の話。 // 退屈なものを押し付けられる理不尽さを体感させるのも教育。勉めを強いると書いて勉強と、注釈にも書いた〜よ。
偏差値とかセンターの点数とかペーパーテストの話を持ち出されたことに少し驚いた。

俺にとっての国語とは、ペーパーテストの点数以上の意味は持たなかったってことだろうと思う。「文学」には到底及ばない(そもそも文学は芸術分野であって…とか、色々思うところはあるけど)。それにしても「ある集団の平均」って数値化出来なきゃ平均なんて考え出せないよね。どうしてもペーパーテストの話になっちゃうんじゃないの?

教育の一般論も集団の平均を上げる方法論も、大した違いはないとは思う。集団の平均を上げる方法論は、簡単に書くとすれば、目標/現状/方法のセットで考えるのは釈迦に説法として、選抜によるクラスタ化と、「目標を理解する」ではなく「目標を理解させる」のがポイントになる。上の愚痴では、自分向けではなかった退屈な授業と教師が提示した目標への不信はあったわけでして。この辺り、「エリート校」なら既に解決してる問題は多いのでは?

ただ、一般論に戻すけど、教育の集団を閉鎖的にする理由は経済的な問題、例えば設備コストや評価コストや教育事業者への評価などの問題に帰着するので、そもそも「集団の平均を上げる」っていう目標自体がナンセンスだとは思ってます。まぁ、ここまで言うと理想論すぎるけどね。

*1:50でひっくり返せば偏差値89!!id:Brittyには負けないお!!!