それはアートであるか

あなたにとって新しい視点を与えるものであれば、それはアートである。

で、考えてみれば良いよ。

例えば「ある人が、『これアートである』と主張している」こと自体は自分には関係ない。としても、自分がそれを見た/体験したときに「新しい視点」を特に感じなかったが、他の人の解説を聞いたことにより、改めて「新しい視点」を感じることができたなら、自分にとってアートであると考え直してもよい。

「アート」なんぞには徹底的に造詣の浅いオレからすれば、こんな糞下らない詐欺を保留付きでも「アート」と仮定できる神経が分からない。有村や高橋は、それが「アート」である可能性を「論理的」に説明すべきである。ぐにゃぐにゃとした訳の分からない言辞を弄するのであれば即座に偽物と看做して構わない。仮にそれが「アート」であった場合でも、「作品」の公開は被害者並びにその親族が誰も異を唱えなくなる未来まで停止すべきであろう。そして、時を経るうちにそれが本当に「アート」であるか否かは自ずとはっきりする。
あ・り・む・ら!!! - 消毒しましょ!

だから「造詣が浅い」とかは関係なくて、お前がそれに新しい視点を感じていないのであれば、それで十分。ただし、他の全員が同じ見解だとは限らないので、「アートではない」と言い切ることもまた難しい。所詮は解釈の問題であり、それぞれの主観の問題だからだ。時を経て、多くの人の解釈を経てもなおアートではないと感じる人が多ければ、恐らくアートである「可能性は低い」だろうね。

これで、「論理的」になりますかね?

追記

古代人の落書きが現代人に新しい知見を与えることもあるわけで、それが永遠にアート足り得ないかなんて議論できるものではないですよね…というのが自分の立場ということで、

id:ohnosakiko 低俗表現だって芸術の中にある。一つの表現を倫理的な問題とは別に芸術と看做して擁護する立場をとるなら、なぜそれを芸術だと言えるのか言語化できなきゃ意味がない。「最後まで筋を通す」なんてのはそれ以前の問題
はてなブックマーク - ohnosakikoのブックマーク / 2010年6月18日

に対する横槍回答の一つにもなるのかな。

ブコメより

id:ohnosakiko これは「アートは主観で決めていいが最終的には多数決で決まる」と言ってるだけ。どこが「論理的」?アートは定義不能と言えば済む。私のブコメは「だからこそソレをアートだとした理由が個別に問われる」ってこと。
はてなブックマーク - それはアートであるか - @katzchang.contexts

アートであるという要件が主観なので、それが誰にとってもアートではないという証明は無理だっていう主張なんだけど…。

政治じゃないんだから、それがアートであるかについて「みんな」で決める必要なんてないし、多数決は関係ないし、そんなことを書いたつもりはない(ただ、上で「自分にとってアートである可能性は低い」と書いた方がわかりやすかったかも知れない)。社会的に決めたければ、人気投票でもぶったてるか、権威様に「これは素晴らしい芸術である!」とでも言わせておけばいいよ。

「アートは定義不能」っていう立場をとるなら、「ソレをアートだとした理由」を問い詰めてどうするんだろう?それは、「どんな作品でもアートたりえる」っていう立場とあまり違いは無いように感じるんだけど、どうなんだろう?