葬式の話

遠い土地に住んでいたうちの祖父が最近亡くなって、葬式に出てきたんだけど、その時思った話。

火葬するまで、その人は「生きている」ことになってるんだよね。多分。だから、弔辞とかでは死者に語り掛ける形になる。タモリの白紙弔辞なんかいい例。個人的にはこの風習は苦手ではあるけれども。

葬祭はその人の死を受け入れるために執り行うとはよく言われることだけど、通夜・告別式の2〜3日間は、その人の突然の死を受け入れがたい人のための、その人の死を受け入れるための準備期間なんだよね。医学的に死亡したらしいですよ、死装束着て動きませんよ、一晩待ったけどやっぱり動きませんね、さぁ骨になりましょうか、という手順で大多数の人に受け入れさせる。医学的に死亡したらしいですよ、はい、骨の粉になりました、だと、「ちょっと待て。本当に死んでたのか?」とかついつい思いたくなっちゃうのって、医学が発達してなかった時代とか、政治的なアレが盛んらしかった昔の話だけじゃないと思うんですよね。

今朝、祖母が亡くなったんだけど、葬式がめんどくさくて仕方がないの」関連の、自分語りでした。葬式は受け入れられない人基準だから、受け入れられる人にとっては退屈に感じるのは自然なこと。お金がかかるのは、絢爛豪華な衣装と伝統的な芸能の披露に対する謝礼で、芸妓さんや舞妓さんをお座敷に呼ぶのと同じです。と、とある坊さんが言ってたと聞いた(伝聞)。どんな理屈やねんと思うのは多分正しいw

って、自分のじいちゃんの葬式でこんなことばっかり考えてるのもアレだよね。(だいぶ、一旦書いて消した部分は多いけど。これでもね。)

あ、あと、祭壇の遺影が液晶ディスプレイでびっくりした。背景スライドショーだしww